プッサンの絵画「われもまたアルカディアにありき」は、見る者に謎深く、読み解かれるべき時を遠く携えている。うら寂しい、寒々としたギリシャの一地方が、想像上、完全な至福の地となったのは「ウェリギリウスただ一人の想像力によるものであった」とパノフスキーは記した(「視覚芸術の意味」岩崎美術社)
 しかし「この新しい理想郷アルカディアが生まれるとすぐに、想像的環境の超自然的な完璧さと、現実の人間生活の自然的限界との矛盾」が生じた。その不協和音を、ウェルギリウスは「夕暮の悲哀と静穏の混合の中で解消」したのである、とパノフスキーは述べている。ウェルギリウスは、愛の躓きや死を除外はしないものの、それらから事実性を奪って、悲劇は未来に、あるいは好んで過去に、投影することによって、神話的真実を牧歌的情緒に変えたのである、と。

 ウェルギリウスの死後1300年の後、中世からルネサンスに入るにつれて、そのアルカディアが「魔術的な幻想のように、過去から現れて」来る。「至福と美の理想郷」は、空間的に遠いというよりは時間的に遠い「古典的世界全体と同様に、その不可欠な一部」として、蘇るのである。「理想的な過去の、破られることのない平和と清浄に対する、この郷愁的ではあるが、いまだ没個性的な憧れ」は先鋭化され「本当の現在に対する烈しい個性的な非難」にもなったとパノフスキーは語っている。
 プッサンが2度に亘り「われもまたアルカディアにありき」を描いた17世紀はまだ遠い。だがその遠さの裡に、この絵が喚起するべき意味も堆積している。    by びれいぽいんと店主

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